退職金の振込額を見て「あれ、思ったより少ない」と感じたとき、計算書に「未払い残業代と相殺済」という文字が書かれていた——そんな経験をされた方に、真っ先に伝えたいことがあります。
会社が退職金から残業代を一方的に相殺するのは、労働基準法24条で禁止された「賃金全額払いの原則」に違反し、原則として無効です。 最高裁判例も、労働者の書面による同意がない限り、使用者による一方的な相殺を認めていません。
「会社が勝手にやっていいのか?」「どうせ泣き寝入りするしかないのでは?」と思っているとしたら、それは間違いです。法律は明確にあなたの側に立っています。この記事では、相殺が無効になる法的根拠から、証拠の集め方、返金請求の具体的な手順まで、今日から実践できる対応方法を詳しく解説します。
退職金から残業代を勝手に相殺された——これは違法行為です
よくある”勝手な相殺”のパターン3選
まず、「自分のケースが本当に違法な相殺に当たるのか」を確認しましょう。以下の3つのパターンは、いずれも法的に問題のある典型例です。
パターン①:退職金通知書に「相殺済」と書かれているだけ
退職金の支給通知書や計算書に「未払い残業代〇〇円と相殺」と記載されているものの、残業代の計算根拠が一切示されていないケースです。「会社が計算したから正しいはず」と思わせたいのでしょうが、計算根拠の開示なき相殺は、労働基準法に明確に違反します。
パターン②:口頭で「引いておきました」と説明されただけ
退職時の面談や電話で「未払い金があったので退職金から差し引きました」と口頭で告げられるケースです。書面もなく、あなたが合意した記録もない——これは法的な「同意」とは到底認められません。
パターン③:就業規則に「相殺できる」と書いてあると言われた
「就業規則〇条に相殺できると定めている」と会社が主張するパターンです。しかし、就業規則の記載だけでは相殺の有効要件を満たしません。詳しくは次の項目で解説します。
相殺有効・無効を分ける決定的な違い
相殺が「有効」か「無効」かを分ける唯一の分岐点は、労働者が書面によって自由な意思で明確に同意したかどうかです。
最高裁判所は「日新製鋼事件(最高裁 平成2年11月26日)」において、使用者が一方的に行う相殺を無効とし、労働者の「自由な意思に基づく同意」が必須要件であると判示しています。さらに、その同意は「真に自由な意思に基づくものであるか否かについて慎重に判断すべき」とされており、退職時という力関係の不均衡な状況下での署名は、同意として認められにくいとされています。
| 状況 | 相殺の有効性 |
|---|---|
| 書面で自由意思による同意あり | 有効になり得る |
| 口頭での同意のみ | 無効 |
| 就業規則の記載のみ | 無効 |
| 会社が一方的に通知 | 無効 |
| 退職時に署名させられた(強制的状況) | 無効になり得る |
今すぐできるアクション: 自分が相殺に同意した書面に署名・押印したかどうかを確認してください。していなければ、その相殺は違法である可能性が極めて高いです。
相殺が無効になる3つの法的根拠
労働基準法24条「賃金全額払いの原則」とは
労働基準法24条1項は、賃金は「その全額を支払わなければならない」と定めています。これを賃金全額払いの原則と呼びます。
退職金も「賃金」に含まれます(就業規則や退職金規程に定めがある場合)。したがって、使用者が「会社に対する債権がある」という理由で退職金から勝手に差し引くことは、この条文に真っ向から違反するのです。
法律が認める例外は以下の2つだけです。
- 法令に別段の定めがある場合(例:社会保険料、所得税の控除)
- 当該事業場の労働者の過半数を代表する者との書面による協定がある場合(例:購買代金の控除)
会社が「未払い残業代がある」として勝手に退職金と相殺することは、上記のいずれにも該当しません。違反した場合、使用者には30万円以下の罰金(労働基準法120条)が科される可能性があります。
民法510条が相殺を禁止するケース
民法510条は「悪意による不法行為に基づく損害賠償の債務を受働債権とする相殺は禁止する」と定めています。さらに重要なのは、賃金債権(退職金を含む)に対しては、差押えが禁止されている部分については相殺もできないという原則が機能することです。
加えて、民法505条が定める相殺の要件(双方が互いに同種の債権を有すること、双方の債権が弁済期にあること等)を満たさない一方的な相殺は、そもそも法律上の相殺としての効力が生じません。一方的な相殺は民法の相殺要件すら充たさないため、法律上の相殺ではなく、単なる不法な控除として扱われるのです。
判例「山田辰商事事件」が示した相殺無効の判断基準
最高裁判所 昭和49年4月25日の山田辰商事事件は、使用者による一方的な相殺は労働基準法24条に違反し無効であるとした重要判例です。
この判例は「使用者が一方的に計算した金額を退職金から差し引く行為」を明確に違法と断じており、たとえ会社が「合理的な計算をした」と主張しても、労働者の同意がない限り無効であることを確立しました。会社が「ちゃんと計算して差し引いた」「残業代が不正請求だった」などと主張しても、最高裁の判断はシンプルです。
同意なき相殺は無効——これが法律の確定した結論です。
証拠収集:返金請求の前にやるべきこと
最初の1週間で集める証拠リスト
相殺を無効にして返金を請求するためには、証拠が命綱です。退職後は会社の書類にアクセスしにくくなるため、退職直後の1週間以内に以下を揃えてください。
【証拠収集チェックリスト】
退職金関係
□ 退職金計算書・支給通知書(コピーまたは写真)
□ 退職金の振込明細(銀行通帳・アプリの画面)
□ 退職金規程・就業規則(PDF保存またはコピー)
残業時間の証拠
□ タイムカード・打刻記録(コピーまたは写真撮影)
□ パソコンのログイン・ログオフ記録(スクリーンショット)
□ 業務メール・チャット(送受信時刻が残るもの)
□ 手書きの業務日報・シフト表
□ 取引先とのやり取り(残業時間帯のもの)
給与・労働条件関係
□ 給与明細(直近2〜3年分すべて)
□ 雇用契約書・労働条件通知書
□ 36協定(会社掲示板または社内回覧で確認)
会社とのやり取り
□ 相殺に関するメール・LINE・チャットのスクリーンショット
□ 口頭でのやり取りはメモとして記録(日時・場所・相手・内容)
□ 相殺に「同意した」書面に署名していないかの確認
未払い残業代の自己計算方法
会社の相殺計算が正しいかどうかを検証するため、自分でも残業代を計算しましょう。基本的な計算式は次のとおりです。
1時間あたりの残業代の計算式:
(月給 ÷ 月の所定労働時間)× 割増率 × 残業時間数
【割増率】
・法定時間外労働(1日8時間・週40時間超):1.25倍
・深夜労働(22時〜翌5時):1.25倍
・法定休日労働:1.35倍
・月60時間超の時間外労働:1.50倍
具体例: 月給30万円・月の所定労働時間160時間の場合
基礎時給:300,000円 ÷ 160時間 = 1,875円
法定残業代(1時間):1,875円 × 1.25 = 2,344円
この計算をもとに、タイムカードや業務記録から残業時間を集計し、会社が相殺計算に使った金額と照合してください。計算根拠を開示するよう会社に書面で求める権利があなたにはあります。
今すぐできるアクション: 給与明細と勤務記録を並べて、直近3ヶ月分の残業代を自分で計算してみましょう。会社の相殺金額と大きな差がある場合、それは追加の返金請求の根拠になります。
会社への返金請求手順
計算根拠の開示を求める最初の一手
返金請求の前に、まず相殺の計算根拠を書面で開示するよう求めることが重要です。会社が計算根拠を示せない、または開示を拒否する場合、それ自体が違法な相殺の有力な証拠になります。
以下の内容を記載した書面を、できれば配達証明付き内容証明郵便で送付してください。
件名:退職金相殺計算根拠の開示請求
○年○月○日
[会社名・代表取締役名] 御中
私は、○年○月○日付けで退職した[氏名]です。
退職金支給通知書において、「未払い残業代相殺額○○円」と
記載されておりましたが、その計算根拠の詳細が
一切示されておりません。
つきましては、以下の書類の開示を2週間以内にお願いします。
1. 相殺対象とした残業時間数および期間の明細
2. 残業代計算に使用した基礎時給の算出根拠
3. 割増率の適用根拠
4. 貴社が相殺有効と判断した法的根拠および
私の同意があるとする書面の写し
正当な根拠の開示がない場合、労働基準監督署への申告および
法的手続きを検討いたします。
[住所・氏名・連絡先]
内容証明郵便による正式な返金請求書の書き方
計算根拠の開示を受けた後(または開示を拒否された後)、正式な返金請求書を内容証明郵便で送付します。内容証明郵便は「いつ・何を・誰が送ったか」を郵便局が証明するため、後の法的手続きで重要な証拠になります。
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退職金返金請求書
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○年○月○日
[会社名]
代表取締役 [氏名] 殿
[送付者住所]
[送付者氏名]
私は貴社を○年○月○日付けで退職した[氏名]です。
貴社は、○年○月○日付け退職金支給通知において、
私の退職金[本来の支給額]円から「未払い残業代」として
[相殺額]円を控除し、[実際の振込額]円のみを支給しました。
しかし、この相殺は以下の理由により無効です。
第1. 労働基準法24条違反
賃金(退職金を含む)は全額払いが義務づけられており、
使用者の一方的な相殺は禁止されています。
第2. 労働者の同意の不存在
私は、貴社が相殺計算を行うことについて、
書面による同意を一切行っておりません。
最高裁判所(山田辰商事事件・昭和49年4月25日等)の
判例においても、労働者の同意なき相殺は無効とされています。
第3. 計算根拠の不開示
相殺額[○○円]の計算根拠が一切示されておらず、
正確性の確認ができません。
よって、本書面到達後14日以内に、相殺された[○○円]の全額を
以下の口座に振り込むよう請求します。
【振込先】
金融機関:[銀行名]
支店名:[支店名]
口座種別:普通
口座番号:[口座番号]
口座名義:[氏名]
期限内に振込がない場合、労働基準監督署への申告、
および法的手続きを実施します。
[住所・氏名・連絡先]
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今すぐできるアクション: 郵便局の窓口またはオンラインサービス(e内容証明)で内容証明郵便を送付できます。送付後は「差出人控え」を必ず保管してください。
会社が応じない場合の法的対抗手段
労働基準監督署への申告
会社が返金請求に応じない場合、退職金の支払先を管轄する労働基準監督署に申告することができます。申告は無料で、労働基準監督官が会社に立入調査・指導・是正勧告を行います。
申告時に持参するもの
□ 申告書(監督署の窓口でもらえる)
□ 退職金計算書・支給通知書のコピー
□ 給与明細(直近2〜3年分)
□ タイムカードや勤務記録のコピー
□ 内容証明郵便の控え(送付した場合)
□ 雇用契約書・労働条件通知書
□ 本人確認書類
監督署が是正勧告を出しても会社が無視した場合、検察送致(書類送検)に発展するケースもあり、会社に対する大きなプレッシャーになります。
少額訴訟・労働審判・通常訴訟の使い分け
| 手続き | 請求額の目安 | 期間 | 費用 | 特徴 |
|---|---|---|---|---|
| 少額訴訟 | 60万円以下 | 1日 | 数千円 | 簡易・迅速。1回の審理で判決 |
| 労働審判 | 制限なし | 3ヶ月以内 | 数万円 | 労働問題専門。調停→審判の流れ |
| 通常訴訟 | 制限なし | 6ヶ月〜1年以上 | 数万円〜 | 複雑な事案・高額請求に適する |
労働審判は、労働問題に特化した迅速な手続きで、弁護士費用を抑えながら会社と対等に交渉できる実用的な選択肢です。弁護士に依頼する場合、着手金なし・成功報酬型の事務所も多いため、費用面のハードルは思ったより低いケースがほとんどです。
時効に注意——請求できる期間は限られています
未払い残業代の請求権には時効があります。
- 2020年4月以降に発生した残業代:時効3年
- 2020年3月以前に発生した残業代:時効2年
退職から時間が経つほど請求できる金額が減ります。「とりあえず様子を見よう」という判断が、あなたの請求権を少しずつ消滅させていきます。気づいた段階ですぐに行動することが最重要です。
今すぐできるアクション: 退職日から3年以内(2020年3月以前の残業代は2年以内)であれば、今日から請求手続きを始めてください。期限が迫っている場合は、弁護士への相談を最優先してください。
相談先と活用できる公的支援
状況別・最適な相談窓口
| 状況 | 相談先 | 費用 |
|---|---|---|
| まず話を聞いてほしい | 総合労働相談コーナー(各都道府県労働局) | 無料 |
| 会社に指導してほしい | 労働基準監督署 | 無料 |
| あっせん(話し合いの仲裁)を求めたい | 都道府県労働委員会 | 無料 |
| 法律的なアドバイスが欲しい | 法テラス(日本司法支援センター) | 収入に応じて無料〜低額 |
| 専門家に任せて取り戻したい | 弁護士・社会保険労務士 | 成功報酬型あり |
会社が倒産している場合——未払い賃金立替払制度
退職した会社がすでに倒産している、または経営が著しく悪化している場合でも、未払い賃金立替払制度(独立行政法人 労働者健康安全機構が運営)を活用できます。
未払い賃金(退職金を含む)の最大80%を国が立替払いしてくれる制度で、一定の要件を満たせば申請可能です。ただし、退職後6ヶ月以内の申請が必要なため、早急に最寄りの労働基準監督署に問い合わせてください。
よくある疑問に答えます
Q1. 退職時に「同意書」にサインしてしまいました。それでも無効を主張できますか?
可能性はあります。最高裁は、退職時など使用者との力関係が不均衡な状況での同意は「真に自由な意思に基づくものか慎重に判断すべき」としています。「サインしなければ退職金を払わない」などと言われた状況、内容を十分に説明されなかった状況であれば、同意書の効力を争える余地があります。弁護士に状況を詳しく相談することをお勧めします。
Q2. 相殺された金額が少額(数万円)でも請求する価値はありますか?
あります。少額訴訟は60万円以下の請求を1日で解決できる手続きです。弁護士に依頼しなくても本人申立てが可能で、申立費用は数千円程度。さらに、不当な相殺に対して泣き寝入りすることは、会社に「違法行為が通用する」と認識させることにもなります。
Q3. 会社が「残業代の相殺ではなく、借金の返済だ」と言ってきました。
会社の主張が正しいとしても、賃金(退職金)からの一方的な控除には変わりありません。借金の返済であれば、民事上の債権債務として別途交渉・訴訟で解決すべきものであり、退職金から無断で差し引くことは労働基準法24条違反です。「借金の名目を使った相殺」という手口はよく見られますが、法律上の違法性は変わりません。
Q4. 会社が「就業規則に書いてある」と言っています。就業規則に書いてあれば有効になりますか?
なりません。就業規則は法律(労働基準法)の下位にある社内ルールです。いくら就業規則に「退職金から相殺できる」と書いてあっても、労働基準法24条に違反する内容は無効です(労働基準法92条)。就業規則の記載は相殺の有効性を担保しません。
Q5. 相殺額の計算が合っていれば、相殺は有効になりますか?
計算が正確かどうかは、相殺の有効・無効とは別の問題です。法律の原則は「同意なき相殺は無効」であり、たとえ残業代の計算が正確であったとしても、労働者の書面による自由な意思に基づく同意がなければ相殺は無効です。ただし、正確な残業代が存在するとすれば、その部分は会社に対する別途の返還義務が発生する場合もあるため、弁護士と整理するとよいでしょう。
まとめ:今日からとるべき行動
退職金からの一方的な残業代相殺は、労働基準法24条・民法・最高裁判例のいずれに照らしても、原則として違法・無効です。
あなたが今日すべきことを3つに絞ります。
- 証拠を集める — 退職金計算書・給与明細・タイムカードをすぐに保存する
- 計算根拠の開示を求める — 書面(できれば内容証明)で会社に送付する
- 時効を意識する — 3年以内(2020年3月以前分は2年)に必ず行動する
一人で抱え込まず、労働基準監督署や弁護士という「味方」を積極的に使ってください。法律はあなたを守るために存在しています。困った時は、総合労働相談コーナーや法テラスの無料相談から始めるのが現実的です。諦めず、まずは第一歩を踏み出してください。

