メンタルヘルス不調で労災申請をしたのに、会社側から「ストレスチェックの受診記録がないから業務外の疾患だ」と主張された——。そのような状況に置かれたとき、多くの労働者は「申請を諦めるしかないのか」と途方に暮れます。しかし、この主張は法的に誤りです。ストレスチェックの受診有無は、労災認定の要件とはまったく関係がありません。
精神障害の労災認定は、厚生労働省の「心理的負荷による精神障害の認定基準」に基づいて判断されます。ストレスチェック制度は労働安全衛生法第66条の10に基づく予防・早期発見制度であり、認定基準のどこにも記載されていません。
この記事では、会社の業務外主張に対して労働者がどのように反論し、どのような手順で業務起因性を立証すればよいかを、法的根拠・証拠収集・申告手順・相談先まで体系的に解説します。
「ストレスチェック未受診=業務外」は法的に誤り
| 制度・基準 | 法的根拠 | 主な目的 | 労災認定との関係 |
|---|---|---|---|
| 精神障害認定基準 | 厚生労働省通達 | 業務起因性の判断 | 直接的に適用 |
| ストレスチェック制度 | 労働安全衛生法第66条の10 | 予防・早期発見 | 無関係 |
| 会社の主張「未受診=業務外」 | 法的根拠なし | — | 法的に誤り |
ストレスチェック制度の本来の目的
ストレスチェック制度は、労働安全衛生法第66条の10に基づく制度です。その目的は、労働者のメンタルヘルス不調を「予防」し「早期発見」することにあります。具体的には、従業員が年1回のストレスチェックを受けることで自らのストレス状態を把握し、高ストレス者には医師面談を勧奨するという流れです。
ここで重要なのは、この制度が「予防・早期発見のための制度」であり、「労災認定の判断基準ではない」という点です。ストレスチェックの受診記録は、労災申請の可否とは全く無関係です。
さらに見落とされがちな事実として、ストレスチェックを実施する義務は会社(事業者)側にあります(常時使用する労働者数50人以上の事業場)。ストレスチェックが実施されていなかった場合、あるいは労働者が受検できない状況に置かれていた場合、その責任は会社側にあります。「記録がない」こと自体が、むしろ会社の安全配慮義務違反(労働契約法第5条)の証拠になりえます。
今すぐできるアクション
「ストレスチェックの実施記録はあるか」「自分に受検の案内があったか」を確認し、実施されていなかった事実があれば記録しておきましょう。これは会社の義務違反の証拠になります。
労災認定で本当に問われる3つの要件
厚生労働省が定める「心理的負荷による精神障害の認定基準」(令和5年9月改正)では、精神障害の労災認定に必要な要件を以下の3つと定めています。
| 要件 | 内容 |
|---|---|
| ①対象疾病の発病 | DSM等の診断基準に基づく精神障害であること(うつ病・適応障害など) |
| ②業務による強い心理的負荷 | 発病前おおむね6か月以内に、業務による「強」の心理的負荷が認められること |
| ③業務以外の心理的負荷・個体側要因が主因でない | 私的な問題(離婚・借金など)や個人の脆弱性が主たる原因でないこと |
ストレスチェックの受診記録はこの3要件のどこにも含まれていません。
会社が「ストレスチェック記録がない=業務外」と主張することは、認定基準を根本的に誤解しているか、または意図的に事実を曲げている可能性があります。労働基準監督署はこの3要件のみを審査対象とするため、会社の主張は申請の判断に何の影響も与えません。
業務起因性の医学的立証——何をどう証明するか
労災認定の核心は「業務と発病の間に相当因果関係があること」の立証です。医学的立証とは、難解な医学論文を用意することではありません。診断書・業務記録・医師の意見書を組み合わせ、「この仕事量・この出来事がこの病気の原因だ」という筋道を示すことです。
診断書・医師の意見書を整える
まず、精神科・心療内科の主治医から労災申請用の診断書を取得してください。診断書には以下の内容が記載されているか確認し、不足があれば医師に追記を依頼します。
- 発症時期(いつから症状が始まったか)
- 主症状(不眠・食欲不振・集中困難・希死念慮など)
- 初診日(初めて医療機関を受診した日付)
- 現在の治療内容
- 業務との関連性についての医師見解(「業務上のストレスが発症に関与した可能性がある」など)
診断書とは別に、医師の意見書(私的鑑定書)の作成を依頼することも有効です。意見書は診断書より詳細な医学的説明を記載できるため、審査請求・再審査請求の段階で特に効果を発揮します。費用は医療機関によって異なりますが、1〜3万円程度が相場です。労災事件の経験がある医療機関であれば、意見書の必要性を理解しており、スムーズに対応してくれます。
今すぐできるアクション
主治医に「労災申請を検討している」と伝え、診断書の業務関連性欄に医師の見解を記載してもらえるか相談しましょう。労災申請の経験がある医師であれば、記載のポイントを理解しています。
「心理的負荷評価表」に沿った業務記録の整備
厚生労働省の認定基準には「心理的負荷評価表」が付属しており、業務上の出来事(心理的負荷)を「強・中・弱」の3段階で評価する基準が示されています。自身の状況がどの程度の心理的負荷に該当するかを、この評価表と照らし合わせながら証拠を収集することが重要です。
評価表で「強」に該当する代表的な業務上の出来事は以下のとおりです。
過重労働関連
– 発病前1か月に時間外労働が160時間を超えた(令和5年基準改正で新設)
– 発病前2か月〜6か月にわたって月100時間超の時間外労働が続いた
– 休日がほとんど取れない状態が続いた
ハラスメント・人間関係
– 上司から継続的な身体的・精神的攻撃を受けた
– セクシュアルハラスメントを受けた
– 同僚から集団的ないじめ・嫌がらせを受けた
業務内容・役割変化
– 会社の倒産や重大事故の処理を突然担わされた
– 能力・経験とかけ離れた仕事を強いられた
これらに対応する証拠として、以下を収集・整備してください。
【収集すべき証拠リスト】
過重労働の証拠
├─ タイムカード・入退館記録・PCログ
├─ メール送受信履歴(深夜・休日のタイムスタンプ)
├─ 給与明細(残業代・休日出勤手当の有無)
└─ 業務日報・プロジェクト管理ツールの記録
ハラスメントの証拠
├─ 上司・同僚からのメール・チャット履歴
├─ 録音データ(スマートフォンで随時録音)
├─ 目撃者の証言(同僚の陳述書)
└─ 人事部・相談窓口への相談記録
業務内容の証拠
├─ 業務指示書・社内通達
├─ プロジェクト資料・担当範囲が分かる資料
└─ 職場の組織図(役割・責任範囲の把握)
今すぐできるアクション
スマートフォンでメール履歴・チャット履歴をスクリーンショット保存し、個人のクラウドストレージ(Google ドライブ等)にアップロードしてください。会社のシステムへのアクセス権が突然失われるケースがあります。
発症前6か月の「業務の流れ」を時系列で整理する
認定基準では、発病前おおむね6か月間の業務状況が審査の中心となります。この期間に何があったかを時系列で整理した「業務経過メモ」を作成してください。
記載すべき内容は次のとおりです。
- 日付(出来事があった日または期間)
- 出来事の内容(誰が・何を・どのような状況で)
- 自分の心身の状態への影響(その後から不眠が始まった、など)
- 証拠の有無(メールがある、録音した、など)
このメモは、労働基準監督署への申請書類(「災害発生状況及び原因に関する書面」)を作成する際の骨格になります。また、弁護士・社会保険労務士に相談する際にも、状況を短時間で正確に伝えるために役立ちます。時系列を明確にすることで、認定基準の「業務による強い心理的負荷」という要件を具体的に立証できるようになります。
労災申請の手順と会社の業務外主張への対処
労働基準監督署への申請手続き
精神障害の労災申請は、事業場(会社)の所在地を管轄する労働基準監督署に対して行います。申請に必要な主な書類は以下のとおりです。
| 書類 | 入手先・作成者 |
|---|---|
| 療養補償給付たる療養の給付請求書(様式第5号)または休業補償給付支給請求書(様式第8号) | 労働基準監督署または厚生労働省ウェブサイト |
| 診断書 | 主治医 |
| 精神障害の発病経緯に関する陳述書(自作) | 本人 |
| 業務経過・心理的負荷に関する資料 | 本人収集 |
会社(事業主)の証明欄について
様式第5号・第8号には「事業主証明欄」があります。会社が証明を拒否することがありますが、事業主証明が得られなくても申請は受理されます。証明欄を空白のままにするか、「会社が記入を拒否した」旨を付記した上で提出してください。
厚生労働省の通達(平成17年9月7日基労補発第0907001号)により、事業主証明がなくても請求書を受理するよう指導されています。労働基準監督署は会社側の同意なしに独立した調査を行い、業務起因性を判断する権限を有しています。
労働基準監督署は申請を受理後、独自に調査を行います。会社へのヒアリング、同僚・上司からの聴取、医療機関への照会などを経て、通常3〜6か月程度で認定・不認定の処分が行われます。
今すぐできるアクション
管轄の労働基準監督署に電話し、「精神障害の労災申請をしたい」と伝えて相談日を予約しましょう。初回相談は無料で、書類の書き方も教えてもらえます。
会社の「業務外」主張に対する具体的な反論
会社が調査の過程で「業務外因」を主張してきた場合、以下の論点で反論します。
反論①:ストレスチェック未受診は業務外の証拠ではない
「ストレスチェックは労安衛法66条の10に基づく予防制度であり、労災認定の要件ではない。認定基準(令和5年9月改正)にも、ストレスチェック受診の有無は要件として規定されていない」と明示してください。会社の主張は認定基準に基づいておらず、審査の対象外です。
反論②:業務起因性の証拠は存在する
前述の業務記録・メール履歴・医師の意見書を提示し、発病前6か月の業務負荷が「心理的負荷評価表」の「強」に該当することを具体的に示します。過重労働の時間数、ハラスメントの具体的内容、役割変化の経緯などを数字と事実で裏付けることが重要です。
反論③:業務外の心理的負荷が主因であるという立証責任は会社側にある
認定基準では「業務以外の心理的負荷・個体側要因が主因でないこと」が要件とされていますが、この「業務外が主因だ」という立証責任は、主張する側(この場合は会社)にあります。単に「業務外だ」と言うだけでは要件を満たしません。具体的な根拠を求めてください。
異議申立の手順——認定されなかった場合
初回申請で不認定になった場合や、認定内容に不服がある場合は、以下の段階的な不服申立手続きで争うことができます。
審査請求(都道府県労働局)
不認定処分を受けた日の翌日から3か月以内に、処分を行った労働基準監督署を管轄する都道府県労働局長に対して審査請求を行います(労働保険審査官及び労働保険審査会法第5条)。
審査請求書には、不認定処分に対する不服の理由を具体的に記載します。この段階では、新たな証拠(医師の意見書、追加の業務記録など)を追加提出することができます。初回申請で不足していた証拠を補強する重要な機会です。審査請求を通じた補強が、認定へ至る有効な手段になることは多くあります。
再審査請求(労働保険審査会)
審査請求の決定にも不服がある場合は、決定書の謄本送付を受けた日の翌日から2か月以内に、労働保険審査会に再審査請求を行います。この段階では、さらに詳細な医学的・法律的主張が可能です。
行政訴訟(地方裁判所)
再審査請求の裁決に不服がある場合は、裁決書の謄本送付を受けた日の翌日から6か月以内に、地方裁判所に取消訴訟を提起することができます(行政事件訴訟法第14条)。この段階では弁護士への依頼が実質的に必須です。
【不服申立フロー】
不認定処分
↓(3か月以内)
審査請求(都道府県労働局)← 新証拠追加の好機
↓(2か月以内)
再審査請求(労働保険審査会)
↓(6か月以内)
取消訴訟(地方裁判所)← 弁護士必須
今すぐできるアクション
不認定通知を受け取ったら、審査請求の3か月の期限を必ずカレンダーに記入してください。期限を過ぎると不服申立の権利を失います。
相談先と専門家の活用
無料で相談できる公的機関
| 機関名 | 特徴 | 連絡先 |
|---|---|---|
| 労働基準監督署 | 申請窓口。書類の書き方も相談可能 | 全国各地(厚生労働省ウェブサイトで検索) |
| 都道府県労働局・総合労働相談コーナー | 労働問題全般の相談。無料・予約不要 | 各都道府県労働局 |
| 法テラス(日本司法支援センター) | 収入要件あり。弁護士費用の立替制度あり | 0570-078374 |
| 都道府県の弁護士会・無料法律相談 | 30分無料相談が多い | 各弁護士会 |
専門家に依頼すべきタイミング
- 会社が組織的に反論・妨害している場合
- 審査請求・再審査請求の段階に進む場合
- 会社からのパワハラ・不当解雇が同時に発生している場合
- 医師の意見書の内容について専門的判断が必要な場合
社会保険労務士(特定社労士)は、労働基準監督署への申請書類作成・審査請求書の作成を代理できます。弁護士は審査請求以降の行政不服申立・訴訟を代理でき、会社への損害賠償請求も同時に行うことができます。
弁護士費用の目安と節約方法
労災事件を扱う弁護士の初回相談費用は30分5,000〜1万円程度ですが、無料相談を行っている事務所も多くあります。法テラスの審査を通過すれば、費用を立替払いしてもらえます(収入・資産要件あり)。また、労働組合(ユニオン)に加入することで、労働問題に強い弁護士・社労士を低コストで紹介してもらえる場合もあります。
申請を有利に進めるためのチェックリスト
申請前・申請中に以下の項目を確認してください。
【証拠収集チェックリスト】
□ 主治医の診断書を2部以上取得している
□ 診断書に発症時期・初診日が明記されている
□ 医師の意見書(業務との関連性)を依頼している
□ 発病前6か月のタイムカード・PCログを保存している
□ 業務メール・チャット履歴をスクリーンショット保存している
□ ハラスメント発言の録音データがある
□ 業務経過の時系列メモを作成している
□ 同僚・証人に陳述書を依頼した(または依頼を検討している)
□ ストレスチェックが実施されていたか・案内があったかを確認している
【申請手続きチェックリスト】
□ 管轄の労働基準監督署に相談予約をした
□ 様式第5号(または第8号)を入手・記入した
□ 事業主証明拒否の場合の対応方法を把握している
□ 審査請求の期限(不認定処分から3か月)を把握している
□ 専門家(社労士・弁護士)への相談先をリストアップしている
まとめ——あなたの権利を諦めないために
会社が「ストレスチェックの受診記録がない」ことを理由に業務外を主張しても、それは法的根拠のない主張です。労災認定の判断は、厚生労働省の認定基準に基づき、業務と疾病の因果関係があるかどうかを労働基準監督署が独立して判断するものであり、会社の同意は必要ありません。
重要なポイントを整理します。
- ストレスチェック未受診は労災申請の障害にならない(労安衛法66条の10は予防制度)
- 認定の3要件(対象疾病・業務上の強い心理的負荷・業務外要因が主因でない) に沿って立証する
- 発病前6か月の業務記録・医師の意見書 が立証の核心
- 会社の事業主証明がなくても申請は受理される
- 不認定でも審査請求(3か月以内)・再審査請求・行政訴訟 と段階的に争える
一人で抱え込まず、労働基準監督署・法テラス・弁護士・社会保険労務士を積極的に活用してください。精神的に追い詰められているときに複雑な手続きをこなすのは困難です。専門家のサポートを受けることは、権利行使の近道であり、心身の回復へ向けた大切な一歩です。
よくある質問
Q1. 会社が「ストレスチェックを受けていないのはあなたが業務に問題がないと思っていたからだ」と言ってきました。どう反論すればよいですか?
ストレスチェックを受けるかどうかと、業務によってストレスを感じていたかどうかは別問題です。多くの労働者は、過重な状況にあっても「自分が頑張れば大丈夫」と思い、症状が重篤化するまで受診しません。また、そもそもストレスチェックが適切に実施・周知されていなかった可能性もあります。認定基準は受診行動ではなく、業務の実態と発病の因果関係を問うものです。ストレスチェック受診の有無と労災認定は法律上全く異なる制度なのです。
Q2. 申請してから認定まで何か月かかりますか?
精神障害の労災申請は、身体障害に比べて調査が複雑なため、通常6か月〜1年程度かかる場合があります。調査が長引く間も、健康保険を使って治療を継続できます(後日、労災認定された場合は療養補償に切り替えられます)。早期認定を望む場合は、初回申請の段階で十分な証拠を揃えることが重要です。
Q3. 審査請求で新しい証拠を出してもよいですか?
はい、審査請求の段階で新たな証拠を追加提出することができます。初回申請時に間に合わなかった医師の意見書・同僚の陳述書・録音データなどを追加することで、認定される可能性が高まります。審査請求は「やり直しの場」とも言え、実際に初回不認定から審査請求で認定される事例は多くあります。
Q4. 会社が「個人的な問題(家庭の悩みなど)が原因だ」と主張してきました。どう対応しますか?
認定基準の第3要件「業務以外の心理的負荷・個体側要因が主因でないこと」を会社側が主張するには、「業務外要因が主因である」ことの具体的な証拠が必要です。単に「家庭の問題があった」と言うだけでは認定の否定理由にはなりません。業務上の心理的負荷が「強」と評価できる証拠(過重労働・ハラスメントの記録)があれば、業務以外の要因があったとしても認定される場合があります。
Q5. 会社への損害賠償請求と労災申請は同時にできますか?
はい、両者は別の制度です。労災保険給付を受けながら、会社に対して安全配慮義務違反(労働契約法第5条)や不法行為(民法第709条・第715条)を根拠に損害賠償請求を行うことができます。ただし、受け取った労災保険給付額は損害賠償額から控除される場合があります。弁護士に依頼することで、労災申請と並行して損害賠償請求も進めることができます。





