退職日直前に突然「返却物が戻るまで給与は振り込めない」と会社に言われた——このような状況は労働基準法違反に該当する可能性が極めて高いです。本記事では、給与凍結の違法性の法的根拠・今すぐ取るべき行動・申告先と請求手順を、実務レベルで解説します。焦る気持ちはよくわかりますが、正しい順序で動けば給与は必ず回収できます。
「返却物がないと払わない」は違法である理由
賃金全額払いの原則(労働基準法第24条)
会社が「返却物がないと給与を払わない」と主張する行為は、労働基準法第24条(賃金全額払いの原則)に真っ向から反します。
同条は次のように定めています。
賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。
「全額」という言葉が決定的です。会社が一方的な理由で給与の一部または全部を差し引いたり、支払いを凍結したりすることは、法律が明確に禁じています。唯一の例外は「法令に別段の定めがある場合」または「労使協定による控除」に限られますが、いずれも返却物の未返却とは無関係です。
返却物問題は「別の債権」である
法的に整理すると、給与と返却物の問題はまったく異なる性質の債権です。
| 権利の種類 | 内容 | 根拠法 |
|---|---|---|
| 給与の支払い請求権 | 労働の対価として当然発生する権利 | 労働基準法第24条 |
| 返却物の返還請求権 | 会社が別途主張できる民事上の請求 | 民法第703条等 |
| 損害賠償請求権 | 物品が返却されない場合の損害賠償 | 民法第415条等 |
返却物が未返却であることは、会社が民事上の請求を別途行う権利を持つ問題にすぎません。それを理由に給与の支払い自体を止めることは、法律上まったく認められていない行為です。
相殺禁止の原則
「給与で損害を相殺する」という発想も法的に誤りです。最高裁判例(日新製鋼事件・1990年)は、使用者が労働者に対して持つ債権と賃金を一方的に相殺することは原則禁止と明示しています。
労働者が自由な意思に基づいて相殺に同意した場合を除き、会社側が一方的に「返却物の損害分を給与から引く」「給与振込を止める」ことは違法な相殺にあたります。
退職時の即時精算義務(労働基準法第23条)
さらに、退職後の給与支払いには特別なルールがあります。労働基準法第23条は次のように定めています。
労働者が退職した場合、使用者は7日以内に賃金を支払わなければならない(労働者が請求した場合)。
退職後に労働者が請求すれば、会社は7日以内に全額を支払う義務があります。返却物の有無はこの期限に影響しません。
今すぐ取るべき行動(優先順位順)
ステップ1:状況を詳細に記録する
証拠は後から集めることができません。給与凍結の通告を受けた直後から、以下の情報を記録してください。
記録すべき情報のチェックリスト
- [ ] 通告の日時・場所・当事者の役職と氏名
- [ ] 「返却物がないと払わない」という発言の一字一句(できれば録音)
- [ ] 返却を求められた物品の具体的なリスト
- [ ] その物品が本当に会社支給品かどうかの確認状況
- [ ] 返却の期限として提示された日時
- [ ] 同席していた第三者の氏名
録音は会話の一方当事者が行う限り、日本の法律では原則として合法です。スマートフォンのボイスレコーダーアプリを活用してください。
ステップ2:返却物の状況をメールで確認・記録する
口頭でのやり取りは証拠になりにくいため、必ずメールやチャットツールで書面化してください。以下のテンプレートを参考にしてください。
メール送信テンプレート
件名:給与振込条件と返却物一覧の確認(○月○日付通告に関して)
人事部 ○○様
本日、給与振込凍結についてご通告をいただきました。
退職に際しての手続きを適切に進めるため、
以下について書面にてご回答いただけますでしょうか。
1. 返却を求めている物品の正確なリスト
2. 各物品が会社支給品であることの証明(貸出記録等)
3. 返却期限の具体的な日時
4. 給与振込を行う条件(何をもって凍結解除とするか)
なお、賃金全額払いの原則(労働基準法第24条)に照らし、
返却物の有無と給与支払いは法的に別問題と認識しております。
上記確認後、速やかに適切な対応を検討いたします。
○○(氏名)
このメールには二重の効果があります。一つは返却物の内容を会社側に書面で確認・記録させること、もう一つは「労働基準法を認識している」という意思表示によって会社の違法行為を抑制することです。
ステップ3:給与明細・雇用契約書・就業規則を確認する
手元にある以下の書類を今すぐ確認・確保してください。
| 書類 | 確認・保全の目的 |
|---|---|
| 雇用契約書 | 給与額・支払日の根拠を確認 |
| 給与明細(直近3ヶ月分) | 未払い額を計算する根拠 |
| 就業規則 | 返却物規定・賃金規定の内容を確認 |
| 貸与品管理台帳・備品受取書 | 返却物が本当に会社支給品かを確認 |
就業規則に「返却物がない場合に給与を差し引く」という規定があったとしても、労働基準法より下位の規定は法律に反する部分が無効となります(労働契約法第13条)。
ステップ4:返却物を可能な限り速やかに返却する
法的に正しい対応は「給与を受け取りつつ返却物も返す」ことです。会社が不当な要求をしているとしても、返却すべき物品があるなら返却することで問題を複雑化させないのが得策です。
返却の際は必ず次の手順を踏んでください。
- 返却物のリストを事前に書面で提出(メール可)
- 返却時に受領書・サインをもらう
- 受領書が得られない場合は内容証明郵便で返却通知を送る
- 返却品目・状態・日時を写真に記録する
給与凍結が続く場合の申告・請求手順
労働基準監督署への申告
給与が支払われないまま1週間以上経過した場合(退職後に請求した場合は7日経過後)、労働基準監督署(労基署)への申告が最初の公的手続きです。
申告の流れ
- 管轄の労基署を確認する:会社の所在地を管轄する労基署に申告します(自分の住所ではない点に注意)
- 申告書を準備する:窓口でも書式をもらえますが、以下の情報を整理して持参してください
- 申告窓口を訪問する:事前予約不要(ただし繁忙期は待ち時間あり)
申告時に持参するもの
- [ ] 雇用契約書(写し)
- [ ] 給与明細(写し・直近3ヶ月分)
- [ ] 給与凍結の通知(メール・書面の写し)
- [ ] 「返却物がないと払わない」という発言の記録(録音・メール)
- [ ] 未払い給与の計算書(自分で作成)
- [ ] 返却物の一覧と返却状況のメモ
労基署の申告により、労働基準監督官が会社に対して行政指導を行います。多くのケースでは、指導を受けた会社がこの段階で支払いに応じます。
内容証明郵便による支払い督促
労基署への申告と並行して、または申告前に、内容証明郵便で支払い督促を送ることが効果的です。内容証明は法的手続きの証拠となり、会社に対して強いプレッシャーを与えます。
内容証明に記載すべき項目
記載事項チェックリスト:
□ 発信者(氏名・住所)
□ 受信者(会社名・所在地・代表者名)
□ 未払い給与の金額と計算根拠
□ 支払い期限(通常「本書到達後7日以内」)
□ 根拠法令(労働基準法第24条・第23条)
□ 支払いがない場合の対応方針(労基署申告・法的措置)
□ 振込先口座情報
内容証明郵便は郵便局の窓口またはe内容証明(日本郵便の電子サービス)から送付できます。費用は通常1,000〜2,000円程度です。
内容証明の文例(抜粋)
通 知 書
私は、貴社に○年○月○日をもって退職しましたが、
○月○日現在、○○年○月分給与(金○○円)が
未払いのままとなっています。
労働基準法第24条は賃金全額払いの原則を定めており、
返却物の有無を理由とした給与の支払い留保は
同条に違反する行為です。
本書到達後7日以内に、下記口座へ上記全額を
お振込みいただきますよう通知します。
なお、期限内にお支払いがない場合は、
労働基準監督署への申告および法的措置を
取らざるを得ないことをご承知おきください。
(振込先口座情報)
支払督促(簡易裁判所)
内容証明送付後も支払いがない場合は、支払督促の申立てが利用できます。
支払督促は、裁判所書記官が債務者(会社)に支払いを命じる簡易手続きです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 申立て先 | 債務者(会社)の所在地を管轄する簡易裁判所 |
| 費用 | 請求金額の0.5%程度(収入印紙)+郵便費用 |
| 期間 | 申立てから概ね2〜3週間で督促状発送 |
| 相手が異議申立てした場合 | 自動的に通常訴訟へ移行 |
| 相手が無視した場合 | 強制執行が可能になる |
少額訴訟(60万円以下の場合)
未払い給与が60万円以下の場合、少額訴訟が最も手軽な法的手段です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 申立て先 | 自分の住所地または会社所在地の簡易裁判所 |
| 費用 | 請求金額の1%程度(収入印紙)+郵便費用 |
| 審理回数 | 原則1回で結審 |
| 期間 | 申立てから1〜2ヶ月程度 |
| 弁護士 | 不要(本人申立て可能) |
少額訴訟は弁護士なしで申立て可能で、裁判所の書記官が書類作成を手伝ってくれます。判決後も支払われない場合は、会社の銀行口座・売掛金への強制執行が可能です。
労働審判(60万円超または早期解決が必要な場合)
未払い給与が60万円を超える場合や、より強力な解決手段を求める場合は労働審判を利用してください。
- 地方裁判所に申立て(弁護士への依頼を推奨)
- 原則3回以内の期日で解決
- 調停成立率が約70%と高い
- 解決までの期間:平均2〜3ヶ月
会社が「損害賠償を相殺する」と主張してきた場合
退職後に会社から「返却物が戻らないので損害賠償を請求する。給与と相殺する」という連絡が来ることがあります。この主張への対応を整理します。
会社側の主張が認められる条件
まず正確に理解しておくべきは、会社には返却物の未返却を理由に損害賠償を請求する権利はあります。ただし、それが認められるには以下の条件が必要です。
- その物品が会社支給品であることの証明(貸出記録等)
- 物品が実際に返却されていないことの確認
- 損害額の合理的な算定(時価・減価償却後の価値)
- 会社側が別途民事訴訟・調停で請求手続きを行うこと
一方的な相殺通知は無効
会社が「損害賠償と給与を相殺する」と一方的に宣言しても、労働者が同意しない限り法的効力はありません。
最高裁(日新製鋼事件、1990年)が確立した原則により、使用者による一方的な賃金相殺は禁止されています。「労働者が自由な意思に基づいて行った同意」でなければ、同意自体も無効と判断される可能性があります。
取るべき対応
- 相殺通知が届いたら書面で相殺に応じない旨を明示する
- 「返却物の損害賠償については正式な法的手続きを経てください」と返答する
- 同時に労基署への申告・内容証明の送付を行う
相談窓口一覧
問題を一人で抱え込まず、以下の機関を積極的に活用してください。
| 相談窓口 | 対応内容 | 費用 | 連絡先 |
|---|---|---|---|
| 労働基準監督署 | 給与未払いの行政申告・指導 | 無料 | 厚生労働省ウェブサイトで管轄署を検索 |
| 総合労働相談コーナー | 労働問題全般の相談 | 無料 | 各都道府県労働局内 |
| 法テラス | 弁護士費用の立替・法律相談 | 無料〜低額 | 0570-078374 |
| 弁護士会労働相談 | 法的手続きの具体的アドバイス | 有料(初回無料の場合あり) | 各都道府県弁護士会 |
| 労働組合(ユニオン) | 団体交渉・会社との直接交渉 | 低額〜 | 全国ユニオン等 |
給与凍結を受けた際の「やってはいけない行動」
焦りから行動を誤ると、後の法的手続きを困難にする場合があります。
絶対に避けるべき行動
- 口頭だけで返却物を返す:受領書なしの返却は「返した証拠」がなくなります
- 「同意書」にサインする:「損害賠償と給与を相殺することに同意します」という書類には絶対に署名しないでください。自由意思による同意とみなされ、後の法的手続きが困難になります
- SNSに会社名・個人名を投稿する:名誉毀損リスクがあり、交渉を複雑にします
- 感情的なメール・LINEを送る:後に証拠として使われる可能性があります
- 会社に怒鳴り込む・脅迫ととられる行動をとる:恐喝・脅迫として逆用される危険があります
- 給与の一部受領に無条件で応じる:「その金額で合意した」とみなされる可能性があります(「一部受領であり残額を留保する」という書面を残す)
証拠保全の完全チェックリスト
法的手続きを有利に進めるために、以下の証拠を今すぐ確保・保全してください。
書類関係
– [ ] 雇用契約書(写し)
– [ ] 給与明細(直近3〜6ヶ月分・写し)
– [ ] 就業規則(返却物・賃金規定のページ)
– [ ] 貸与品受取書・管理台帳の写し
– [ ] 退職届・退職合意書の写し
– [ ] 給与凍結通知・メール(印刷+PDF保存)
電磁的記録
– [ ] 会社との交渉メール(PDF・スクリーンショット)
– [ ] チャットツール(Slack・LINEワークス等)のログ
– [ ] 録音データ(日時・場所を別メモで記録)
– [ ] 給与振込履歴(銀行アプリのスクリーンショット)
返却物関係
– [ ] 返却物の写真(返却前・返却後)
– [ ] 返却時の受領書
– [ ] 返却をメールで通知した記録
よくある質問
Q1. 退職済みでも労基署に申告できますか?
はい、退職後でも申告できます。賃金請求権の消滅時効は3年(2020年4月以降の賃金)ですので、退職後でも時効内であれば申告・請求が可能です。なるべく早く行動することをおすすめします。
Q2. 返却物を返せば自動的に給与は支払われますか?
法的には返却物の有無と給与支払いは別問題ですが、現実的には返却後に「凍結解除」として支払われるケースが多いです。ただし「返却したのに払わない」という状況にも備え、返却の証拠(受領書・メール記録)を必ず残してください。
Q3. 会社が「就業規則に返却物未返却の場合は給与を差し引く旨の規定がある」と主張しています。
就業規則の規定が労働基準法第24条(賃金全額払いの原則)に反する内容であれば、その部分は無効です(労働契約法第13条)。就業規則は法律より下位の規範であり、法律違反の規定を設けることはできません。この主張には応じないでください。
Q4. 弁護士に依頼するべきですか?費用が心配です。
未払い給与額が少額(60万円以下)の場合は少額訴訟で本人申立てが可能です。費用が心配な場合は法テラス(0570-078374)に相談すると、収入に応じた弁護士費用立替制度を利用できます。また、解決後に未払い給与の一定割合を成功報酬とする弁護士も多くいます。
Q5. 会社から「返却物の弁償金額が給与を上回るから相殺でゼロになる」と言われました。
これは違法な主張です。損害賠償額が給与を上回るとしても、会社が一方的に相殺することは禁止されています。損害賠償請求は民事訴訟で別途行う必要があります。まず給与全額の支払いを求め、その後の損害賠償請求には別途対応してください。
Q6. 給与振込口座を会社が「凍結解除しない」と言っています。
「給与振込口座の凍結」は会社が一方的にできることではありません。銀行口座を凍結できるのは金融機関・裁判所(仮差押命令)のみです。会社が「凍結する」と言っている場合は、実際には振込処理を行わないということです。これは給与不払いそのものであり、労基署への申告事由になります。
最後に:焦らず、正しく行動する
給与凍結は明らかな違法行為です。しかし「今すぐ法的措置をとる」ことが常に最善とは限りません。多くのケースでは、証拠を整理した上で内容証明郵便を送付し、労基署に申告することで、会社は支払いに応じます。
重要なのは、証拠を確保し、正しい手続きの順序を守ることです。感情的になったり、焦ったりして不適切な行動をとると、後の法的手続きを困難にします。
本記事で紹介した手順を参考に、段階的に対応を進めてください。必要に応じて弁護士や労基署のアドバイスを受けながら、給与の全額回収を実現できます。

