「先月の給与が突然減っている。明細を見たら『返却物不足』として勝手に天引きされていた」――そんな状況に直面したとき、どこから手をつければいいかわからず混乱してしまう方は少なくありません。
さらに困るのは、残業代の未払いと天引きが同時に起きているケースです。「どちらがいくら問題なのか」が見えにくくなり、泣き寝入りするまま時間だけが過ぎていきます。
この記事では、返却物不足を理由にした給与天引きがなぜ違法なのか、残業代の未払いとどう切り分けて請求すればよいか、証拠収集から申告・返金まで何をどの順番でやるかを、実務レベルで具体的に解説します。
「返却物が不足」を理由に給与を天引きするのは違法か?
結論から言えば、違法です。
日本の労働法には「賃金全額払い原則」があり、使用者(会社)は労働者に対して賃金を全額支払わなければなりません。これは労働基準法第24条第1項に明記されています。
「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない」
「返却物が足りない」「備品を壊した」「制服を返さなかった」といった理由は、この原則の例外に当たりません。会社が損害の補填を求めたいなら、民事上の損害賠償請求(民法第709条)として別途行う必要があります。給与から一方的に引くことは許されないのです。
労働基準法施行規則第9条は、給与から控除できるものを厳格に定めています。「法令に基づく控除」(所得税・住民税・社会保険料など)と「労使協定に基づく控除」(社内積立金・組合費など)以外は控除できません。返却物の弁償費は、どちらにも該当しません。
給与から天引きできるものとできないもの
| 区分 | 具体例 | 法的根拠 | 合否 |
|---|---|---|---|
| 合法(法令控除) | 所得税・住民税 | 所得税法・地方税法 | ✅ 控除可 |
| 合法(法令控除) | 厚生年金・健康保険・雇用保険 | 社会保険各法 | ✅ 控除可 |
| 合法(協定控除) | 労使協定のある社内積立・組合費 | 労基法24条ただし書き | ✅ 控除可 |
| 違法 | 返却物・備品の弁償費 | 労基法24条違反 | ❌ 控除不可 |
| 違法 | 制服代・ユニフォーム代 | 労基法24条違反 | ❌ 控除不可 |
| 違法 | 器物損壊・事故による損害賠償 | 労基法24条違反 | ❌ 控除不可 |
| 違法 | 研修費・採用費の回収 | 労基法24条違反 | ❌ 控除不可 |
今すぐできるアクション: 手元にある給与明細を開き、控除欄の項目を上の表と照らし合わせてください。「税」「保険料」以外の控除項目があれば、それは違法控除の疑いがあります。
「器物損壊の弁償」は民事請求であり給与控除とは別問題
「返却物が壊れていた」「紛失した」という事実があったとしても、それは民事上の損害賠償の問題です。会社が損害の補填を求めるなら、以下のプロセスを踏む必要があります。
- 損害が発生したことの立証(損害額の算定)
- 労働者の故意または過失の立証
- 損害賠償請求を民事上の手続きで行う
最高裁判例(茨城石炭商事事件・1976年)も、「使用者は労働者の過失による損害について賠償請求できる場合があるが、その金額は信義則上相当な範囲に限られる」としており、給与から一方的に差し引くことは認めていません。
また、最高裁が示した三菱重工業事件の判断でも、経営上の損失を労働者に転嫁することは原則として不当とされています。会社側に損害賠償請求の余地があったとしても、それを給与控除という形で実現することは違法な自力救済に当たります。
残業代未払いと天引きを「分離」する必要がある理由
返却物天引きと残業代未払いが同時に起きているとき、多くの方が「結局いくら損しているのかわからない」と感じます。それは2つの問題が混在しているからです。
分離が必要な理由は3つあります。
① 適用される法律・条文が異なる
天引きは労基法第24条違反、残業代未払いは労基法第37条違反です。申告先や手続きは共通していても、法的根拠が別なので、請求書・申告書では明確に区別する必要があります。
② 金額の計算方法が異なる
残業代は「基礎賃金 × 割増率 × 残業時間数」で算出します。天引き額はそのまま返金を求められます。混在したまま計算すると、どちらの主張も曖昧になります。
③ 証拠の種類が異なる
天引きの証拠は給与明細そのものです。残業代の証拠はタイムカード・出退勤記録です。請求の根拠を分けることで、それぞれの証明が明確になります。
証拠収集の具体的手順
最初の48時間でやること
Step 1:給与明細を写真撮影・クラウド保存する
給与明細(紙・電子データ両方)を撮影し、Google DriveやiCloudなどクラウドストレージに保存します。アップロードの日時が自動記録されるため、「その時点で存在した証拠」として機能します。原物は自宅の安全な場所に保管してください。
Step 2:会社に対して「質問メール」を送る
口頭ではなくメールで会社(直属上司・人事・総務いずれか)に「今月の給与から○○円が控除されていますが、根拠を教えてください」と送ります。これにより会社が天引きを認識していた事実が記録されます。返信内容も保存してください。
Step 3:返却物に関するやり取りを記録する
「どの物品が不足/破損している」と言われたか、いつ誰から言われたか、メモに残します。書面での通知があれば必ず保管します。
1週間以内にやること
Step 4:過去2〜3年分の給与明細を揃える
未払い残業代の時効は3年(2020年4月以降の分、それ以前は2年)です。手元にない分は会社の給付システムや経理部門に開示を求めます。「賃金台帳の開示請求」は労働者の権利であり、会社は拒否できません。
Step 5:勤務時間の実態を記録・復元する
タイムカードのコピーを入手してください(会社に請求できます)。タイムカードがない場合は以下の方法で推計できます。
- PCログイン・ログオフ時刻(IT部門または自身のPC設定から確認)
- 業務メールの送受信履歴(送信日時が勤務時間の証拠になる)
- 入退館記録・社員証の通行ログ
- 手帳・スマートフォンのカレンダー記録
Step 6:天引き金額と残業代を別々に一覧表にする
以下のような分離一覧表を作成します。
| 対象月 | 支給総額 | 天引き額(内容) | 実支給額 | 残業時間(推計) | 未払い残業代(推計) |
|---|---|---|---|---|---|
| ○年○月 | ○○万円 | ○○円(返却物名) | ○○万円 | ○時間 | ○○円 |
この表が後の請求書・申告書の基礎資料になります。
残業代の計算方法
分離請求のためには、残業代をご自身で計算できることが重要です。
基本計算式:
1時間あたり基礎賃金 = 月給 ÷ 月所定労働時間数
残業代 = 基礎賃金 × 割増率 × 残業時間数
割増率の基準(労基法第37条):
| 残業の種類 | 割増率 |
|---|---|
| 時間外労働(月60時間以内) | 1.25倍 |
| 時間外労働(月60時間超) | 1.50倍(中小企業は2023年4月〜) |
| 深夜労働(22時〜5時) | 1.25倍 |
| 休日労働(法定休日) | 1.35倍 |
計算例:
月給25万円、月所定労働時間170時間の場合、時間あたり基礎賃金は250,000 ÷ 170 ≈ 1,471円となります。月30時間の残業(時間外)があった場合の未払い残業代は、1,471 × 1.25 × 30 ≈ 55,163円です。この計算方法を用いて、対象月ごとに正確な未払い額を算出することで、請求の説得力が大きく向上します。
分離請求書の書き方と送付手順
証拠が揃ったら、会社に対して書面で請求します。口頭での要求は証拠が残らないため、必ず書面(内容証明郵便が最も効力が高い)を使います。
請求書に記載すべき事項
天引き返金部分:
– 天引きが発生した月日と金額
– 天引きが労基法第24条(全額払い原則)に違反することの明記
– 返金期限(通常「本書到達後14日以内」)
– 振込先口座
未払い残業代部分:
– 対象期間(例:○年○月〜○年○月)
– 未払い残業時間数と計算根拠
– 未払い金額の合計
– 根拠条文(労基法第37条違反)
– 返金期限と振込先口座
文書冒頭の書き方例:
本書は、貴社による給与の不当控除(労働基準法第24条違反)および割増賃金の未払い(同第37条違反)について、分離して返金を求めるものです。
内容証明郵便の活用
内容証明郵便は「いつ、誰が、何を、誰に送ったか」を郵便局が証明する制度です。請求書は内容証明郵便で送ることで、送付の事実と内容が証拠になります。
- 差出方法: 郵便局の窓口または「e内容証明」(インターネット)
- 費用: 郵便料金+内容証明料(1枚440円)+配達証明(430円)
- 書き方: 1行20字以内、1枚26行以内(手書き・ワープロ可)
申告・相談先と手続きの流れ
会社が請求に応じない場合、または証拠収集の段階で専門家のサポートが必要な場合は、以下の機関に相談・申告してください。
労働基準監督署(最優先の申告先)
何をしてくれる機関か: 労基法違反の調査・是正指導・送検を行う国の機関です。相談・申告は無料で、匿名での相談も可能です。
申告の手順:
- 最寄りの労働基準監督署に電話または来所で予約
- 以下の書類を持参:給与明細(天引き確認用)、出退勤記録・タイムカード、分離一覧表(自作のもの)、請求書のコピー
- 「賃金不払い・不当控除」として申告する(申告書は窓口で記入)
申告後、監督官が会社に対して調査・是正勧告を行います。是正勧告に従わない場合は書類送検の対象になります。
相談窓口: 各都道府県の労働基準監督署(厚生労働省の「労働基準監督署の所在地」ページで確認できます)
総合労働相談コーナー
厚生労働省が設置する無料の相談窓口です。全国の労働局・労働基準監督署内に設置されており、予約不要で相談できます。法的強制力はありませんが、「あっせん」(双方の話し合い促進)を申請できます。
弁護士・社会保険労務士への相談
未払い残業代の計算が複雑な場合、請求額が大きい場合、会社が強硬に拒否している場合は、労働問題に詳しい弁護士や社会保険労務士への相談が有効です。
費用の目安:
– 労働問題専門弁護士の初回相談:多くの事務所で無料〜1万円
– 成功報酬型:回収額の15〜25%程度(着手金不要の事務所もあり)
弁護士を探す方法:
– 日本弁護士連合会「ひまわりほっとダイヤル:0570-783-110」
– 各都道府県の弁護士会の法律相談センター
– 法テラス(法律扶助制度あり):0570-078374
労働組合・ユニオン
個人でも加入できる「合同労組(ユニオン)」は、会社との団体交渉を代行してくれます。労働者が1人でも加入でき、会社は団体交渉を拒否できません(労働組合法第7条)。
時効と請求できる期間
天引きの返金請求: 労基法第115条により、賃金請求権の時効は3年(賃金支払日から起算、2020年4月以降に支払われた賃金)です。それ以前の賃金は2年が適用されます。
残業代の請求: 同様に、2020年4月以降の分は3年、それ以前は2年です。
⚠️ 時効は進行中です。証拠収集を始めたら、できる限り早く請求・申告に移行してください。1日でも遅れると請求できる範囲が狭まります。
会社が応じない・報復してきた場合の対処
「申告したら解雇された」「嫌がらせを受けた」というケースへの対処も知っておく必要があります。
申告を理由とした不利益取扱いは違法です。 労基法第104条第2項は、労基署への申告を理由とした解雇・降格・嫌がらせを禁止しています。
万一、申告後に不利益な取扱いを受けた場合は、以下を記録してください。
- 不利益取扱いの内容・日時・相手の言葉(録音も有効)
- 申告日と不利益取扱いの日付の前後関係
この記録を持って労働基準監督署か弁護士に相談すると、報復行為そのものへの対処も取れます。
返金を受けた後の確認事項
返金が実現した後も、以下を確認してください。
- 振込額が請求額と一致しているか確認する(一部だけ返金されているケースがある)
- 給与明細上の控除項目が削除されているか確認する(翌月以降も続いていないか)
- 会社から「清算書」「合意書」への署名を求められた場合は内容を確認する(「今後一切の請求を放棄する」という文言が含まれていれば、弁護士に確認してから署名する)
よくある質問
Q1. 天引きされた金額が少額でも申告できますか?
はい、請求額の多少にかかわらず申告できます。労働基準監督署への申告に最低請求額の制限はありません。また、「少額だから諦める」という態度が会社の違法行為を継続させることにもなります。少額でも申告・請求することに意味があります。
Q2. 返却物が実際に壊れていた場合、弁償しなければなりませんか?
会社が損害賠償を求めること自体は民法上否定されませんが、弁償義務があるかどうかは別途判断が必要です。まず「故意または重大な過失があったか」「損害額は適正か(中古品であれば時価での計算になる)」を確認してください。仮に弁償義務が認められる場合でも、給与から一方的に差し引くのは違法であり、民事上の話し合い・請求として別個に処理する必要があります。
Q3. 残業代と天引きの分離が難しい場合、どうすれば良いですか?
まず、給与明細の「控除欄」に記載された天引き額を確定させてください。残業代は出退勤記録をもとに別途計算します。どちらか一方でも証拠がある場合は、証拠がある部分だけでも請求できます。計算が困難な場合は社会保険労務士か弁護士に計算を依頼することも選択肢です。
Q4. 労働基準監督署に申告したら、必ず会社に氏名が知られますか?
匿名での相談は可能ですが、正式な「申告」として調査を求める場合は申告者の氏名が監督署に記録されます。ただし、監督署が会社に調査に入る際に申告者の氏名を開示する義務はなく、会社への通知は「申告があった」という事実のみになる場合が多いです。不安な場合は相談時に「氏名の扱いはどうなるか」を確認してください。
Q5. 時効が近い場合、急いでやるべきことは何ですか?
時効を止める(中断させる)ためには「内容証明郵便による請求書の送付」が最も速い手段です。請求書を送付した時点で時効の進行が止まります(民法第150条による催告)。この後6ヶ月以内に労働審判・訴訟等の法的手続きを取れば、時効の更新(リセット)が認められます。証拠が不十分であっても、まず請求書を送ることを優先してください。
Q6. 会社を退職した後でも請求できますか?
はい、退職後でも時効の範囲内であれば請求できます。在職中に請求が難しかった場合も、退職後に労働基準監督署への申告や弁護士への依頼を通じて請求できます。退職が「合意解約」であっても、賃金請求権は原則として消えません。ただし「清算条項付きの退職合意書」に署名した場合は権利放棄の対象になりえるため、署名前の内容確認が重要です。
まとめ:行動の優先順位
返却物不足を理由にした給与天引きは、労働基準法第24条に違反する違法行為です。残業代の未払いと同時に起きている場合は、2つの問題を分離して証拠を整理し、それぞれの根拠条文(第24条・第37条)に基づいて請求することが回収への近道です。
| 段階 | 行動 | タイミング |
|---|---|---|
| ①証拠固定 | 給与明細の撮影・保存、質問メール送付 | 今日〜2日以内 |
| ②実態把握 | 過去分の明細・出退勤記録の収集、分離一覧表の作成 | 1週間以内 |
| ③計算 | 天引き額の確定、残業代の計算 | 1〜2週間以内 |
| ④請求 | 内容証明郵便による分離請求書の送付 | 2〜3週間以内 |
| ⑤申告・相談 | 労働基準監督署への申告、弁護士相談 | 会社が応じない場合すぐに |
まず今日できることから始めてください。給与明細を保存して、会社にメールを送るだけでも、証拠の積み上げが始まります。時効は今この瞬間も進んでいます。
本記事の内容は一般的な労働法の解説であり、個別の事案については弁護士など専門家への相談をお勧めします。企業による違法な給与控除に対しては、泣き寝入りせず、制度や手続きを活用して正当な権利を守ることが重要です。

